プロフィール

1967年2月21日 山口県下関市に生まれる。幼少の頃より音楽、小学生時代は『おまじない』や『星占い』が好き。愛読書は『私は見た!死後の世界』。移動図書館で『時をかける少女』を読み、同じ本の別の小説でパラレルワールドを憶い出す。

18歳の時、小遣いでタロットを買い、周りの友達をカードリーディングし始める。『夢分析』や『箱庭療法』を学ぶ。

22歳の時、名古屋へ。1年余り劇団員として愛知岐阜三重3県の小学校公演や旅公演(全国)をまわる日々を送りながらもタロットカードで出会う人をリーディング。

24歳で結婚。出産。核家族子育て時代は、名古屋市内の自宅でフランチャイズの英語英会話教室を10年間開講しつつ、生徒や保護者をタロットカードリーディング。

2007年より謎のセラピスト「おりひめかおる」という名で、カードリーディングとチャネリングによるチャクラ開放アカシックレコードリーディングの2本柱でセッションをおこない始める。ドリーンのオラクルカードに出合ってからは、タロットカードは封印。

2008年下関へ。学校勤務の傍ら(副業禁止のため)無料セッションを続ける。

2017年学校勤務を辞め、本心に正直な「世界がおりひめ」人生にシフト。

下関市大和町に『おりひめサロン』OPEN。現在に至る。現在は目醒めた意識でクライアント様が夢と希望と光を憶い出すセッションをおこなっている。

「セッション中は何か幸せに包まれる」という言葉をいただくことが多い。

 

 

 以下は、かなりマニアックな内容になりますので、興味のある方だけ目をお通しください。

 

【音楽編(番外編)】

4歳よりピアノを始める。絶対音感。物心ついた頃から音楽と星占いが好き。父親が高校の教員だったこともあり、体育祭や文化祭など家族で行っていた際、間近で見た吹奏楽部の生演奏を聴いて育つ。小学校時代は、特別音楽クラブに所属。

当時、神社の宮司を務めていた祖父母の具合が代わるがわる悪くなったため、長男である父の意向で小学校卒業と同時に、田舎の中学校に引っ越した。中1女子にとっては、受け容れられない転校だった。毎晩ベッドの上で天井の木目を眺めながら、自分の運命を嘆き悲しみ泣きはらす日々だった。

行くはずだった憧れの吹奏楽部のあるマンモス校中学校とは違い、文化部が何一つないことに憤慨し(笑)生徒総会のフリートーキングで意見を主張したり校長室に直談判に行ったりと、正義感の強い女子だった。

もともと「音」が好きなので、音声として好きな英語に妥協して専念し、市内の英語暗唱大会で入賞した。

今から思えば、「別れの後には必ず新しい出会いというものがあるのだから、やみくもに悲しむ必要ない」ことを、この時に体感した。

 

高校時代は、部員80名の管弦楽部でバイオリン、編曲、指揮者を務める。

予備校(浪人)時代は、他県の吹奏楽部の指導を頼まれ、指揮の上手な友人と一緒に行き、銅賞から銀賞へ導く。

短大時代は、聖歌隊や女声合唱に入部し、指揮者を務める傍ら、一般の市民オーケストラに所属。

教育実習で母校の生徒たちに「先生、音楽の先生かと思った」と言われた時には、かなり嬉しかった。

卒業後の劇場の事務局時代に名古屋の音楽劇団と出会い名古屋へ。”音楽以外のこともたくさん経験し、それでも音楽が好きだから、音楽をやりに名古屋に行きたい!”と言った時には、不思議と父は反対しなかった。

手取り80,002円の一人暮らしで、愛知・岐阜・三重の小学校公演や全国各地の劇場を飛び回る日々を送る。

結婚&出産後、子育て時代は、趣味のオーケストラを続けながら、名古屋市内の自宅でフランチャイズの英語・英会話教室&ピアノ・バイオリン教室を開講。

 

2008年、故郷下関へ。引っ越しの理由は、”もともと故郷で子育てしたかった”という気持ちに加え、TVドラマ『のだめカンタービレ』に感化され(笑)”生まれ故郷の下関で、のだめのSオケのような愉快なオケで、舞台と客席が一体となった楽しいコンサートが開催できたらなあ~”という沸き起こる願いから。

今思えば、そんな気持ちでもないと、新築一戸建ての家を売却してまでも、故郷下関に帰ることはしなかったと思う。不思議な決断だった。

 

願えば、宇宙は思いもしないような方法で、叶えてくれる☆彡それを実感。

 

♪オーケストラ歴♪

山口県立下関南高管弦楽部(3年間)(編曲&指揮担当)'82-'85

メモリアル・フィル・ハーモニー・オーケストラ(夏だけの単発オケ)'86

下関市民オーケストラ(2年間)'88,89

名古屋ムジークフェライン管弦楽団(10年間)'92-'01

名古屋シンフォニア管弦楽団(2年間)'07,'08

そして、2009年春、20年ぶりに下関市民オーケストラに再入団。

2015年度より休団中。

 

 

【住居編(番外編その2)生まれてから現在まで14回引っ越し。住まいも波乱万丈】
結婚前、家族5人揃って生活していたのはたったの3年間。

※1年間は年度カウント(4月~3月)

1967.2.21 18:00誕生(山口県下関市=現在の「癒しの地」で生まれる)

【0~1歳(1年間)】 山口県美祢市の教員住宅⇒全く記憶なし!

【1回目 1~5歳(5年間)】 当時は豊浦郡?県立高校の教員住宅。高校の敷地内の庭つき平屋。年子の弟と両親と家族4人暮らし。よく覚えている。間取りが好きだった。

 この期間の出来事:死ぬかと思ったけど死ななかった体験をしたのもこの頃。⇒数メートル下の土の上に落下したり、三輪車で川沿いの下り坂を猛スピードで下り止まらなくなったり。どちらもその先の記憶なし。ピアノ自分から習いたいと言い出し、母と楽器店に行き「これがいい」と選んだのもこの時。音が好きで、何か楽譜を見たらすぐに弾けて、習うのが楽しかった記憶あり。

 

【2回目 5~12歳(年長~小6の7年間)】 下関市内の教員住宅(4階建の最上階。)

 この期間のドラマ:小1の夏、末の弟が生まれる。唯一家族5人で暮らしていたのは、小4まで。小5は父が国内留学でいなかったし、小6の2月より、神社の宮司を務めていた父方の祖父母が代わる代わる体調を崩し、母と弟二人は一足先に、神社の社務所へ引っ越す。私と父は私の小学校卒業の手続きが面倒になるという理由から、市内に残った。この時、父が夜間(定時制)のコマがある時は、父の帰宅を待ちながら見ていたTV漫画「銀河鉄道999」が忘れられない。美味しいパンをお土産に持って帰ってくれていた。毎週木曜日の19:00~19:30放映。父は苦手で、あまり会話したことなかったけど、嫌でも会話しないといけなくなったのが、猛烈に嫌だった( 一一) 小学校卒業の時、クラスメイトが、私に内緒で折ってくれた千羽鶴(はいつの間にか消えましたが)と、寄せ書き。寄せ書きは今でも大事に持っている。小6の冬、引っ越すのが嫌で、吐きまくり、点滴のお世話になる。

 

【3回目:中1~3 (現在、FBで時々アップしている「癒しの地」住まい)】

94233947_2968635479894201_5039946226942869504_n.jpg

ここは父が大学生の時に建てられた一戸建て。祖父母は神社の旧社務所で生活し、年子の弟は寮生活。父は週末だけ帰ってきていたような。夏休み、冬休みは、市内の教員住宅(はずっと借りていました)へ行ったり来たりする生活だった。中1の頃、きょうだい3人で、早朝、新聞配達をしていた。父の方針で。中2からは、年子の弟が県内の寮生活に入り、ホント家族バラバラに暮らしていた。

 

【4回目 高1(2回目の引っ越しと同じ)下関市内の教員住宅】

癒しの地よりも断然、高校に近いので、朝だけ父の車に乗せてもらい、帰りはバス。時間に超厳しい父は、1分でも遅れると先に発車して、おいてけぼりになったこともΣ(゚д゚lll)

 

【5回目 高2~3(再び「癒しの地」の母家)】

父が山口市に転勤になったため=単身赴任)私と末の弟と母の3人は、父の実家(=現在の癒しの地)で生活。はなれには神社の宮司をしながら祖父母が住んでいた。
 備考:定期代が月に3万円を超えてやけに高かったので、母は郵便局やライスセンターにパートに出ていた。

 

【6回目 浪人(予備校)時代(1年間) 山陰の親戚の家に下宿】
 備考:母と末の弟は、父のいる山口市へ移り住む。

この期間の思い出:予備校生活は、朝はバス停まで歩く⇒バスで山陰の駅⇒電車⇒下関駅で乗り換え⇒小倉⇒徒歩15分 そんな往復の日々を送っていた。夏はクーラーが苦手で、体調を崩し、点滴のお世話になった。

人生で一番落ち込んだのもこの時。1月の共通一次の2日目の理科社会(当時はそんな試験日程)の時に、体調崩して吐きまくり、お先真っ暗になった。

 

【7回目:短大(2年間) みたび癒しの地の母家】

備考:祖父母と一緒に暮らす。バスも1時間に1本あるかないか。

この期間の思い出:高校時代と同じ環境。定期代がΣ(゚д゚lll)月に3万円を超えていた。雨の日、傘を持ってバス停に迎えに来てくれた祖母の姿が今も忘れられない。地元の夏祭りのたびに、祖母に着付けをしてもらっていそいそと出かけていた。お祭り大好き!浴衣大好き!花が好きな祖母で花がたくさん咲いていた。

 

【8回目 下関市から山口市へ 劇場事務局次長時代(2年間)】 

山口市の平屋のアパートで独り暮らし。お隣りは新婚家族が暮らしていた。期間は忘れたが、弟も同居していた時があった。弟の友達にもタロットカードリーディングをしていた時代(→YouTubeインタビュー動画(滝川クリステル似)がこの時、高校生だった方)

独り暮らしするようになった事情:見ての通り、私は両親とあまり一緒に暮らしておらず。両親以外の誰かと生活してきた。これは無意識レベルで、常にどこかで気が張っている暮らしなのだ。親に甘えたいと(=長女ほどこう)思い、就職を山口市にした。厳格な父からは「二十歳過ぎたら、官舎には住めない。自分でアパート借りて自活しろ」と言われていた。やっと両親と一緒に暮らせると喜んでいた。ところが、父は入れ違いに下関に転勤となったΣ(゚д゚lll) 

 

 

【9回目 名古屋の劇団時代(2年間)】

22歳の夏に名古屋へ行き、入りたい劇団のオーディション受けて、1990.1月~名古屋市中川区の近鉄の某駅近くのおばけが出そうな○○荘暮らし。

 備考:家賃と水道代(共同)で24,690円だったのを覚えている。

 

【10回目 名古屋市内の賃貸マンション(3年間)】

新婚時代。家賃と駐車場代合わせて85,000円。愛読書は「主婦の友」だった。

 

【11回目 (楽器を弾きたいがため)名古屋市内に新築一戸建てを購入(13年間)夢のマイホーム暮らし】
 備考:上の子が年少の3月に引っ越し。マンションから目と鼻の先だったので、自分たちで引っ越しをした。

 

【12回目:山口県下関市の「癒しの地」のはなれに(3年間)
 備考:祖母が7月に他界。私たち家族は、8月から、その部屋(はなれ)に入居。おりひめの仕事は学校勤務。

 

【13回目 みたび下関市内の教員住宅(7年間)】

20200530_1859137.jpg

2011.4月。私の県立学校勤務開始と共に、昔懐かしい下関市内の教員住宅へ(7年間)。しかも、同じ4階の同じ部屋へ入居することができた。

 備考:過去(自分が年長~小6と、高1の時)と同じ住まい!この時、娘は高3。昔、父が高校近くのバス停で降ろしてくれていたように、私も娘をちょっと手前のバス停で降ろす日々だった。

 

【14回目 そして現在の住まいへ】教員辞めたので官舎に住めなくなったので。

 備考:引っ越しも自分たちでおこなった。